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客人大権現についてmaroudo daigongen

 当神社の旧称である客人大権現(まろうどだいごんげん)についてご紹介します。

江戸時代の白髭神社 : 白髭・八王子・客人権現合社村ノ鎮守ナリ

白髭神社(旧客人大権現)

 当神社は、江戸時代には「葛西の客人(まろうど)大権現」として江戸市中から多くの参詣者が訪れたと伝えられています。

 当時は「白髭八王子客人権現合社村ノ鎮守ナリ」(新編武蔵風土記稿)、すなわち、白髭、八王子、客人権現の三社の合社が澁江村の鎮守さまであったわけですが、江戸市中には主に「客人大権現」の名で知られていました。

 客人(まろうど、まらひと)とは、元来は稀に来訪する神さまの意味で、神さまを丁重におもてなしすることが福を授かることに通じます。権現とは、仏さまが仮に神さまの御姿で現れたもの、という意味で、当時はたいへん尊い神仏に対して使われていた呼び名です。

 「客人の神は、もと越の白山より比叡の山に飛びうつられ給うたので『まろうど』大明神と称し、のち大権現にまつられた」(葛西誌)とされています。そうだとすれば、越の白山、すなわち白山比刀iしらやまひめ)神社から比叡山の守護神である日吉山王二十一社のひとつ、客人社(日吉大社白山宮)に勧請された菊理媛神(くくりひめのかみ)が、さらに勧請されてまつられたのが、「客人大権現」だと理解することができます。

 なお、権現というのは、いわゆる本地垂迹説に基づく呼び方であったため、明治維新の際、神仏判然令に基づいてこの呼称が見直され、明治5年(1872)に社号が白髭神社に定められました。


客人大権現を崇敬した人々 : 芝居茶屋・遊郭・料飲業・・・接客業に”千客万来”をもたらす神さま

 客人大権現は、不思議なことに名所案内や地誌で詳しく取り上げられることはありませんでしたが、境内に残る奉納物等から、江戸市中からの参詣者は、多岐にわたるグループからなることがわかります。
1 遊郭関係者
江戸名所図会澁江西光寺 文化年間(1815年頃)の紀行文には当時の境内の様子が次のように紹介されています。
 「境内には社殿再建の絵図が掲げられている。信仰の徒も多いが、殊に郭町の者が足を運ぶと見えて、再建寄進の札を見ると、新吉原の轡屋(置屋の意)、千住・小塚原・大塚音羽町・深川常盤町・深川やぐら下などの端々の者どもが講を取り結んで参詣している。伝えられるところでは、ご神体は自然の男根石であるが、秘し拝めて社に安置されているらしい。信仰の婦女は縁結びなどの願いがかなうので日を追い繁栄している。松葉屋が社号額を奉納し、扇子屋の花おうぎなど世上に聞こえた名妓までもが心心に絵馬を捧げているのも一興である。」(『十方庵遊歴雑記』)
 神社に残る奉納物をあわせ考えると、盛んに崇敬していたのは、名の知れた大きな遊郭よりは、むしろ零細な経営の不安定な遊女屋であった、と推測されていますが、このような記述からは、客人大権現を崇敬した講中は、吉原の中心の遊郭や著名な遊女をはじめ、場末の郭町までさまざまであったと考えられます。

2 文人サークル
 境内に残る「客人大権現道」と記された6基の道標は、もとは江戸市中か客人大権現道標らの参道に沿って立てられていましたが、戦後に境内に集めたものです。道標を揮毫したのは京山人、刻んだのは窪世祥です。京山人は別名を山東京山といい、戯作者として著名な山東京伝の弟で、本人も戯作者であると同時に篆刻家としても活躍しました。また、石工の窪世祥は、山東京山をはじめ、当時の文人墨客の撰文・揮毫したものを刻字した作例が多く、狂歌連・俳諧連との交流も考えられ、活動範囲は江戸市中をはじめ、当町などの近郊地域や、南関東に広がっています。
 こうした背景から、道標を奉納した日本橋北鞘町の岡本屋長左衛門と倅同裏河岸清次郎は、江戸の文人サークルの一員もしくはパトロンで、客人大権現への崇敬の念から、サークルで交流ののあった文人である京山人に依頼して、道標を奉納した可能性が指摘されています。

4 料飲業関係
灯篭に刻まれた鰻の字境内に嘉永年間(1850頃)に「鰻最寄」から奉納された石灯籠があります。これは、江戸市中の鰻屋の講中から奉納されたもので、浅草・神田・日本橋茅場町・銀座などで鰻屋を営んでいた商人たちが商売繁昌を願って奉納したものと考えられます。奉納者の中には、外神田明神下の神田川のように、今も老舗として有名なお店も含まれています。
 6項に掲げる芝居茶屋の関係者も料飲業のひとつといえます。



5 商人・仲買人関係者
狛犬 本殿前の狛犬は、安政3年(1856)に尾州御国産油仲買中・水戸御国産油仲買中から奉納されたものです。尾張と水戸という、徳川御三家ではあまり仲の良くない両国の仲買中が協同で奉納された理由は定かでなく、幕末の政治情勢・経済情勢との関わりもさまざま憶測できますが、発願主の一人である駿河屋半兵衛は、深川の炭薪仲買人であるらしく、他に境内に残る石柱に刻された奉納者の世話人にも、同じ深川の炭薪仲買人がいることから、炭薪仲買人をはじめとする深川地区の商人から崇敬を集めていたことが想定されています。



6 芝居関係者
 江戸時代後半に江戸町奉行所から歌舞伎興行を許されていた芝居小屋は、中村座・市村座・森田座の三つで、これを江戸三座といいます。このうち、当神社には森田座以外の二座の関係者からの奉納物が残されており、殊に市村座のあった日本橋葺屋町と浅草猿若町の関係者からは灯篭、額、経文などの奉納物が残されています。中でも、文久2年(1861)に市村座のあった猿若二丁目から奉納された御神鏡の奉納額には、主に芝居茶屋関係者約50名が名を連ねています。芝居茶屋というのは、芝居小屋に専属して観客の飲食をまかなった茶屋ですが、「中菊や」・「山本」など、大茶屋と言われるいわば料亭クラスの茶屋から、子茶屋と呼ばれる小規模茶屋の関係者までが含まれているようです。
 この奉納額は、裏面に「千客万来大々叶(せんきゃくばんらいだいだいかのう)」と書かれており、まさに千客万来を願って奉納されたものであることがわかります。


客人大権現のご神徳・ご利益

内陣灯篭

 一般に、客人大権現への崇敬は「客人」という表記や「まら」という語呂に基づくものだといわれています。しかし、単なる語呂合わせだけで、長期間にわたり崇敬を集めることができるでしょうか。

 神社に残る客人大権現縁起や勧進牒の版木には、「諸人愛敬、商売繁昌、芸能上達、諸願満足、如意吉祥、息災延命、子孫繁栄、一粒万倍」、「武運長久、四民安穏、諸商売繁昌」などのご神徳が掲げられています。

 諸人愛敬(万人から愛され敬われる)、あるいは芸能上達といった接客をを生業とする人々にとってはたいへんありがたいご利益をもたらしてくださり、それが千客万来、やがて商売繁昌へとつながるという信心から参詣者が雲集したと考えられますし、参詣してご利益が叶ったと感じた人々がそのことを伝えてきたために、地誌や名所案内に載らなくとも、口伝だけで長期間にわたり崇敬を集めてきたのだと考えるのが自然ではないかと思われます。

 また、当社のご由緒として、家宣将軍の側室左京局が当神社への崇敬に基づき家継将軍を授かったことから、子授けや花柳病にに霊験ありとして万都の人気を呼んだと伝えられていますが、これもほぼ口承されてきました。当時と現代と道徳観や倫理観には異なるところもあるでしょうが、子宝に恵まれない、または花柳病を心配しなければならない参詣者の立場や心情を考えると、その信心や参詣の動機は公然とは伝えにくいものであったのであったかもしれません。
 明治生まれの古老たちが存命だった頃、自分の若い時分には、いかにもお忍びでお参りに来た遊女のような、地味ないでたちながら艶やかさの漂う女性が楚々として参詣するのに出会った、という類の話をよく語っていたものです。

 客人大権現は、「だれでも知っている」わけではないが「知る人ぞ知る」お社、あまり公式には伝えられなかったが、霊験あらたかと感謝の気持ちを抱いた人々がそれを口から口へ伝承してきたたお社、であったのかもしれません。

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店舗写真

information店舗情報

(渋江)白髭神社

〒124-0014
東京都葛飾区東四つ木4-36-18
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FAX.03-3697-2449
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